漫才における「動き」の是非
本当にマイク一本で漫才をやっていた時代は,当然のことですが,あまり「動く」ことができませんでした。今はピンマイクのおかけで,かなり自由に動くことができるようになりました。
「動き」の多い漫才を見ていて,「こういうのもなかなかいいな」と思う時もあれば,「動きに頼りすぎていて嫌だな」と思う時もあります。最終的には好みの問題なのかもしれませんが,かなり自由に「動ける」ようになったことで,「語る」力が低下してしまうという危険性があるように思います。
人はあまりにも自由な状態よりも,適度な制約がある時の方が成長するという話を聞いたことがあります。「マイクの前から動けない」という制約がある方が,漫才師にとっては良い環境なのではないかと思う時があります。
いずれにしても,年を取れば大抵の人は動けなくなります。それなら動けるうちに動いておいた方がいいという考え方もあるでしょう。動けなくなれば,自然と動かない漫才をするようになるかもしれません。
逆に,動けなくなる時のために,動かない漫才に磨きをかけておくべきだ
という考え方もあります。
さらに逆に,相当年を取っているにもかかわらず動ける漫才師がいるとするなら,「一生動き続けてほしい」と思うような気もします。
うーん……今回は全く結論が出ません…
結局好みの問題なのかもしれません。
ちなみにわたしは,一本のマイクに向かってひたらすしゃべる,ほとんど動かない漫才が大好きです。